2008年04月09日
中国の半植民地化・反乱
中国って本当にいろんなことしてんだなぁ。
19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った時代である。実際に、清朝は大規模な社会動乱や、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清はこの世紀の間ずっと、時代遅れの政府、官僚組織、経済では対処しきれない国内問題と自然災害に直面したということである。
19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。それ以前は、中国はアジアにおいて覇権を握っていた。中華思想では、中国の皇帝は『天下』を支配する権利を持ち、時代や王朝によっては、冊封体制の元で自国の領域や近隣諸国を支配することが可能であった。しかし、18世紀に入ると西欧諸国は世界に進出し、海運業により経済を発展させていった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。
1793年、大英帝国は貿易改善交渉のため(貿易は広州一港に限られていた)、ジョージ3世の乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使節団はヨーロッパの最新の工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、返答は清はヨーロッパの工業製品は必要とせず、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいというものであった。これはイギリス政府の気分を深く害することとなった。
この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスでは茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していたが、これらと代償に大量に中国に輸出する商品を欠いていた。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとり、インドの植民地で栽培した阿片(アヘン)を栽培し、中国に密輸することで三角貿易を成立させた(中国は1796年にアヘンの輸入を禁止)。その結果、次第にアヘン貿易が拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになったため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン貿易の取り締まりを開始した。
林則徐はイギリス商人らのアヘンを没収して処分する強攻策を取ったが、かねて自由貿易を望んでいたイギリス政府はこの機会に武力で開港させる決意を固めて翌1840年アヘン戦争を起こした。しかし、強力な近代兵器をもつイギリス軍に大敗した清は、1842年イギリスと南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。主な内容は、香港の割譲や上海ら五港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結した)。
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